中高の同級生と毎年北の丸公園で花見をしている。今年も先週末にいってきた。
参加者6名。近年にしては多め。
全員輪になって仲がよかったわけではなく、友達の友達的に声をかけて輪に入っている人もいる。適当。
千鳥ヶ淵を歩く人々を公園側から眺めたり。
あっちもこっちも結構咲いていた。
今年は久々に、適当に持ち寄り態勢。
みんなちゃんと美味しいモノを持ってくるのでとてもよい。うまうま。
つーか持ち寄り過ぎ。
が、うまいので、更に持ち寄り過ぎの乾き物を脇にして、たべるたべる。
意外とちょくちょく会ってる人ばかりでもなく去年の花見ぶりの人もいたりするので、近況についてと過去の話題が激しく交錯する。
明日から職場が変わる人、内部で異動する人、近々勤務先を変えることが決まった人、いつでも4つくらい現場をかけ持っていて次々に新しい現場へ行く予定の人、既にちょっと前に内部で異動してた人。
みんな春らしく環境変わっちゃってよいでんな。
ワシは表面上変わらない予定。
(これはMちゃんがもってきたヤツ。ワシも適当な泡をもって行った。この日は他も泡。泡三昧。)
特に明らかなる変化はないのだが、ちょっとずつ変わってきたな、というのを自分で感じている。
3月に個展をしたからだ。
近年自宅にたまりすぎてしまった小さなサイズの絵を少しでも保管する分を減らしたいなと思って「お安め価格」を書き込んで展示したら数枚売れた。
それらにつられるように「非売品」予定だった少し大きめの作品を希望してくださる方が現れて購入していただくことになった。
久しぶりに「ちょっと楽しいな」って感じながら没頭して描いた部分が「特にいいと思った」って言われて何だかほっとした。
購入してくれた方は他にもいろいろ言葉をくれて、以来、描くときに最近いつも抱えていた憂鬱な部分がほぼほぼ消えてきた。
そうそう、近年いつからか描くときに描くことに没頭できない要素「憂鬱な気分の塊」がやってくることが多かった。
モデルさんのクロッキーとか花見にいってスケッチしてるとかの時にはやってこないのだが、大きな作品を描いている時とか大きな作品に向けての試作的な中くらいの絵を描いている時とかにその「イヤな感じ」が常にやってきていたのだ。
それは多分「ここの会の審査で過半数の人に指示されるためには“こうした方がいいと思うよ”」という親切なお声がなせるモノ。
それらの内容は基本的に自分の体質に合わない方向性ばかり。
「そういうの、好きじゃないんだよなぁ」って思いながら「うーん」って感じで折り合いを探しながら困り続けて描いていた。
しんどかった。そろそろ限界だなってくらいしんどかった。
(MちゃんとFちゃんと浅草にも足をのばした。金色の〇んこビル…。「あそこのホールで昔踊ったな」って言ったらFちゃんが「私もー」って言って笑った。)
善意で言ってくれるお言葉を無視して、言ってくれる人たちが審査する場所へ出す絵を描くのが難しく、大きな絵とそれに関連した絵を描くときに苦痛な部分が最近大きくて、描いていない時も「イヤな感じ」が常に頭の片隅にもたげていた。
過去形。
最近もたげていない。
最近そこそこ大きなF50(116.7x91cm)を描いていてもイヤな感じがしないのだ。
気が重くなる善意のアドバイスが遠いところへいった。
描きたいように描いてよいのだという気分になった。ものすごく久々に。
なんか変わってきたような気がする。
「非売品」を買ってくれた人がいろいろ言ってくれたのがキッカケな気がする。
自分が「いいんじゃないかな?」って思って描いたものを「いいと思いますよ」って強く言ってもらえたからなんだと思う。
そんなわけで無理くり3月に個展をしてよかったなって思った個展の最終日、
神保町のコミック高岡が閉店になるんだよって少し前にMちゃんが教えてくれたので、北の丸公園から浅草へ移動する前に「立ち寄りたい」って言ったら、みんな付き合ってくれた。
ここは昔オタクの聖地っぽいところだった印象。
新刊がちょっとフライングで売ってるのだ(言っていいのかな?いっか)。
いつも混み合っていた印象の店内は、それほどは混んでいなかった。ま、そこそこ。
お約束の狭い階段を体をねじって人とすれ違いながら降りて行った。
中高時代、一秒でも早く新刊を手に取りたくてものすごく浮き足立って地下へもぐっていったことを思い出す。いつも興奮で心臓が飛び出そうだった。
あれの最終巻もあの一巻もここで買った、とか思い出す。
地下の棚は見事にガラガラになっていた。そらそうか。閉店なんだから。
奥の半分がカラになって露わになった白い壁をみて「ああ、本当になくなっちゃうんだな」と思った。これが寂しいという感情かって感じだ。
仕方ない。
桜が散るようにいつかみんな終わるのだ。
まあ、また咲いたりもするけど。