じゆうちょう。

日記です。観たもの、食べたもの、読んだもの、ほか。

会員になった

FCの会員とかではない。いや、三宅さんが今年5月に事務所退所して別の事務所入って新しいのができたからFCの会員にも改めてなったけど、そうではなく。

 

美術の公募団体の会員になった。

中高の美術の恩師が会員だった美術団体の会。過去形なのは恩師は2年前の夏に亡くなったから。

 

高校出てすぐにこの公募展に「出しなよ〜。他の公募展とちがってかなり審査が平等なところだよ」とか毎月母校のクロッキー会で会うたび恩師に言われてた。

 


大学の恩師は公募展大否定派で「あんなヒエラルキー構造のヤクザな世界に入っちゃいけない」って授業中によく言う人だった。

 

院を終えた翌年、公募展に出して入選した。

大きなサイズの絵を描く事はあまり興味がなく好きでもなかったが大学時代、ゼミの先生とは別の絵描きの先生が「大きな絵は描かないと描けなくなる」とか「年に一度くらい大きな絵を描いた方がよい」とか言ってたので信憑性はよくわからんがまあ描いとくかくらいの気分で毎年2〜3枚大きな絵を描いてちょびちょび出したり体調を大きく崩して休んだりしていた。

(公募展は審査される場合、2〜3枚出すのが一般的、と恩師に言われてそうしていた。)

 


クロッキー会で毎月会ってた恩師はそのうち「佳作をとるには…」って話を始めて、そうかみんな佳作に選ばれて秀作作家に選ばれて会員に推挙されるために公募展に出してるのかって気がついた。多分出して7回くらいした頃。のんき。

 


自分の絵は毎回「佳作」候補になっては物言いをつける意見が出て多数決で負けてると恩師から聞くようになった。

 


やがてその10年後くらいに夜のプールを描いた絵が「佳作」になった。

「このままこのシリーズを描いた方がよい」と恩師も他の顔見知りの会員の多くの人も言ってきた。

その後も佳作候補になっては物言いがついて多数決で負け続けてるという話を恩師も他の会員さんも教えてくれた。

その物言いの内容は「変なの」って自分は感じるような意見だった。

 


一昨年の夏、恩師が亡くなった。

 


元々『イヤなヤツだなあ』と思う会員もいたり、中高時代に恩師からたくさん聞かされた「会のグチ」の嫌なイメージも濃厚だったので、そろそろもうこの公募展には出さなくてもよいかな?って気持ちになった。

 


けど、いきなり出さなくなったら、顔見知りで親切な会員さんの何人かは、自分が恩師の死にショックを受けて描かなくなったのでは?とかざわざわしちゃいそうだなと思ったり、恩師が亡くなった翌年の展示は地方展も本展も恩師の遺作が展示される最後の機会なのでまあ出すかって思って絵を出した。

 


そうして最後かもって気分で出した去年の本展で初めて「秀作作家」に選ばれた。

 


今年の4月頭はコロナになって1ヶ月以上体調不良、6月頭に歯に細菌が入って病院たらい回しで毎日抗生物質ロキソニン飲む日が1ヶ月以上続いて本当に体がボロボロになった。

 


7月頭に、ここ数年自分を気にかけてくれてた会員さんに「描いてる絵の写真を送ると言いつつ送れずすみません」と謝罪と体調不良の事情を伝える手紙を書いた(高齢者なのでメールなどはしていない)。

とっても優しく励ましてくれるお返事が届いた。

7月半ばから再び絵筆をとって必死にデカい絵を3枚仕上げて8月の下旬に本展に出した。

 


「秀作作家」の連絡がきた。

 


「秀作作家」を2回取った者は会員に推挙されるという内規があるとある会員さんが教えてくれた。

総会があって正式決定して会員決定の連絡が来たのは8月31日。

恩師の命日の翌日だった。

 


秀作作家がHPに発表された朝、既に会員になってる中高の後輩のNちゃんからおめでとう LINEがきた。

恩師が亡くなる直前まで、ワタシの審査の結果を気にして聞いてきてた事をこれまでプレッシャーになるといけないと思って伝えられなかったと言っていた。

自分が恩師と直接交わした最後の会話は、そのNちゃんが今つきあってる人と結婚までいけるだろうかという心配をする言葉だった。

恩師が亡くなった翌年、Nちゃんはその相手と結婚して、翌々年にワタシは会員になったわけだ。

 


やっとそろそろ恩師も成仏できたのかもしれないとNちゃんと言いあったけど、恩師は洗礼を受けてたから成仏はしてないな。